読んでもいない本の話

2017/1/6

妄想老人日記

読んでもいない
本の話


『ハリー・ポッター』シリーズがこの国の読書教育に及ぼした影響は大きいのではないかと思います。ほぼ同時期に読み聞かせ運動が流行したからです。読書の楽しみをこのシリーズで知った若者は多いはずです。辛辣な心理描写にはディケンズの伝統を感じましたし、二作目などイアン・フレミングをじつによく研究したつくりでした。架空のスポーツの描写や、いじめに耐えるマゾヒスティックな描写はディック・フランシスのようでした。その『ハリー・ポッター』シリーズの「最新作」が出版されたそうです。第三者による二次創作のような簡素な脚本だと聞きました。もうじゅうぶん稼いだじゃないかとも思うのですが、いちど富豪になると維持にお金がかかるのかもしれません。

その「新刊」について作家の戸田鳥さんが興味ぶかい感想を書かれていました。戸田さんはまずかつての原作シリーズと映画とのあいだで、ハーマイオニーの描き方が異なることに触れて「ハーマイオニーを美少女のワトソンが演じた時点で原作とのズレが生じている」とおっしゃっています。ハーマイオニーは勉強しか取り柄のない女の子なんですよね。頭がいいから大人になるにつれて綺麗になるし、男の子たちも価値に気づく。十年以上前に読んだので記憶が定かではないのですが、たしか前歯が出ているのがチャームポイントで、作中でその歯がやたら伸びる呪いをかけられたり、容姿を散々にネタにされていました。小説は周縁から対象を描き出したり、さまざまな物事を複層的に描いたりするものですが、尺の制約がある映画では絞り込まざるを得ません。勉強しか取り柄のない出っ歯の女の子に、美しい女性が隠れていることは、映画ではそこを焦点にした物語でしか扱えません。ゆえに本来の人生にあるような回り道をせず、ショートカットで美しさを伝えたのでしょう。当初は入れ歯をつけての撮影が予定されていたとの噂も聞きました。エマ・ワトソンは知的な俳優だとの評判なので、そういう意味では正しい配役だったと思います(映画版を観ていないので断言できませんが……)。また今回の「新作」に「勉強しか取り柄のない女の子」への偏愛は見られないそうです。書いたのが男だからかもしれません。

『ハリー・ポッター』シリーズは子ども向けであるにもかかわらず、性的なほのめかし・あてこすりの露骨な作品でした。ハリーが操る空飛ぶ馬に跨がったハーマイオニーが陶酔する描写は、クリシェといい台詞といい、これ大丈夫なのかなと心配になったものでした。飛行から戻ったふたりがばつの悪い顔をしていて、何も知らないロンが間抜けぶりを披露する場面には、子ども向けとは思えない残酷さを感じました。大人になったふたりが互いの伴侶に隠れて関係をつづけたとしても不思議ではありません。結婚させるべきだったと著者が発言しているのはそういう意味かと思います。著者は思春期の成長を性的なものとして捉えていて、どうもそのことについて書きたかった節があります。マンドレイクの描写を伏線として登場人物たちのふるまいを書いていくさまには、ほとんど悪意を感じました。それぞれを当て馬と結婚させたことについては、割とどうでもよかったんじゃないかという気がします。かつて色々あったことは周囲に隠し通して、別の男(ふたりの関係に気づかない間抜けな親友)を選んでしまうのが人生だ、ということに著者の関心があるのであって、それ以外はプロット上の要請ではないでしょうか。

戸田鳥さんは原作シリーズの結末に、少女漫画の安易なハッピーエンドのようだと不満を感じたそうです。メロドラマ的であることについては、ブロンテ姉妹やトマス・ハーディの伝統がある国の文学という印象は確かにありました(どちらの著書も読んだことはありませんが……)。それ自体が悪いとは思いません。不満を感じたとしたら純粋に技巧的な弱点、物語のたたみ方がそれまでの積み重ねに較べるとやや雑だったことが原因かもしれません。最近ソーシャルメディアで「男性は少女漫画を見下している」という決めつけが話題になりました。メロドラマ的な空想を恥じて卑下しているのはむしろ女性のほうかもしれません。嗤われることを畏れて男性を寄せつけまいとしているかに見えます。完璧な異性(または同性)から愛されたいと願うことがそんなにおかしいでしょうか。あるいはおかしいのかもしれませんが、それはお互いさまです。「少女漫画はプロットを恋愛に寄せるとつまらなくなる」が持論ですが、それは単に恋愛から疎外された人生という個人的な事情からです。若者は生殖しなければいけないから大変だな、くらいにしか思えず共感できない。それはそれであってお姫様は王子様と末永く幸せに暮らしました、というオチが悪いとは思いません。誰だってそうあってほしいと願うものではありませんか?

ただし日本の子ども向け少女漫画は愛されたいという願望よりも、愛されることで社会的評価を手に入れたい、という夢が表現される例が多いようです。ましてジェーン・エアのように社会に抗って愛を勝ち取る女性はあまり一般的ではない印象があります(くどいようですが読んでいません)。日本の女の子は苦労して勉強してもあんまりいいことがありません。アナウンサーや研究職のような本来は知的であるはずの職業も、レースクイーンやコンパニオンと大差ない扱いで、割烹着でポーズをとらされ「女性的」な発言を求められます。より高いカーストの男に媚びる手段と割り切るほうがこの社会では生きやすいでしょう。おかしな詐欺師が出てくるのもそのせいだと思います。社会的評価を得るため主体的に行動することはこの国の社会では許されません。「紫の女」として断罪されます。自分を一方的に「評価」する社会に抗うなどもってのほかです。男だけで独占されていた職業への道を切り拓き、数十年の実績を積み重ねたところで、大人の事情で決まった仕上がりを根拠に、寄ってたかって人格否定されたりします(もしも戸田奈津子さんが美少女であったなら割烹着で微笑み、舌足らずな口調で「女性的」な発言をしていればよかったのかもしれません)。あくまで格の高い男性に愛されることでのみ社会的な評価を得る。それが「道義」だとされています。せっかくの知性を無駄にする女性が、原作のハーマイオニーのような意味で美しいかどうかは別ですが。

「紫の女」の話です。


ヘリベマルヲ

略称、ヘリマル。出版レーベル「人格OverDrive」から代表作『悪魔とドライヴ』をはじめとする8冊の小説を刊行。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにてウェブディレクター・佐々木大輔氏から「注目の『セルフパブリッシング狂』10人」に選ばれた。

ヘリベマルヲの本


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