今週の与太話

2017/4/1

妄想老人日記

今週の与太話


今後は休日のたびにその週に考えたことをまとめることにしました。本や映画の感想が主になるでしょう。出版の話題は単行本にまとめてひと区切りがついたので今後は触れません。いいたいことをすべて盛り込めたとはいえませんが、何も成し遂げていない人間が何を書いたところで貶められるだけなので。『セルフパブリッシング概論 – 読書と出版の未来 -』は4月7日発売。99円で予約受付中です。期間限定販売ですのでお早めに。

ちなみにエイプリルフールだからといってつまらない冗談を押しつけておもしろがるよう要求する記事は苦手です。

政治をおちょくるネタがよくリツイートされてきます。権力を皮肉る文化がほんとうにこの国にあるのなら、なぜカルトが権力にはびこるのか不思議です。単にその場、そのときで力のある側に同調し、よその側を冷笑しているだけではと疑いたくなります。また差別に憤るひとが正義のつもりで自分も似たようなことをやっているのを見かけることがあります。例えばわざわざロリコンの中高年男性に「若い子が好きか」と質問し、差別的な発言を引き出して、「やはり中高年男性は汚い。気持悪い」とSNSで共感を求める若い女性がいます。わざわざ犯罪者のなかから外国人をみつけて危険思想を語らせ、「だから××人は怖ろしい。信用できない」と吹聴するひとに似ています。人間はそういう場所から逃れられないのかなぁと哀しくなります。当然わたしもそのひとりでしょう。他人に厳しく、自分に甘く。

暴力や差別や理不尽が、世の中には日常的に偏在しています。社会が異常である場合、その社会を変えようとするのと、順応してむしろ利用すべく立ちまわるのと、出て行ってよその社会へ移り住むのと、どれが個人の幸福にとって望ましいでしょうか。抗うにせよ順応するにせよ出て行くにせよ、やれるのはごく一部の有能なひとだけです。あとの者はただ脅えて右往左往するしかなく、ひとたび「淘汰」の標的にされたら逃れられません。「その他大勢」でしかないわれわれにできることはないのでしょうか。若い方々には暴力や理不尽を当然と思わされるような目にはあってほしくありません。二次加害する側にまわってほしくもありませんし、見て見ぬふりも、黙らされたり泣き寝入りさせられたりもしてほしくありません。自分が捨石になって世の中が変わるのなら……などという話も聞きますが、わたしにはそれだけの能力もありません。

近年の研究結果を反映させようとしたら「教育の連続性が」と意味不明なことをいわれて修正させられたという話を読みました。この国の学校教育はすごいなと思いました。知識ではなく教義を教えるのですね。もはや教育の体(てい)をなしていません。国として教育勅語を強制はしないけれども現場の判断で教えることは妨げないという、忖度しなさいとでもいいたげな答弁についても読みました。LGBTへの配慮をやめさせる口実に保護者をもちだしたのも感心しました。現場の教師や保護者に責任を押しつければなんでもやれますね。教育勅語の扱いなど右傾化というよりも昔なら逆に不敬罪に該当しかねません。いい歳した大人たちが銃剣道やら何やら、憧れのあまり荒唐無稽な空想ごっこに興じているかのようです。共謀罪でしょっぴかれて拷問の末に惨殺されるのもいやなので、断っておきますが批判はしていませんよ。ただ、すごいなぁと驚いただけ。

ちくま文庫で『青春怪談』を読みました。年長者の女性と若い娘さんの会話、こういう場面が獅子文六はいいですねぇ。ヒロインの父親が、結末近くで意外に男前なところを見せる場面もよかったです。慎一のモデルになったとおぼしき人物には80年代にお金がらみのスキャンダルがあったそうなので、物語のその後をつい夢想してしまいます。獅子文六はどの作品でも社会通念に囚われず、どんな人間性も否定しません。常識を疑うギャグの技巧としてであるとはいえ、虹色のようなジェンダーの多様性すら受け入れます。と同時に、身支度をフネに手伝わせる波平のような感性も、夫婦の交情のありようとして否定しません。読者である当時の「一般大衆」を否定したら人気作家にはなれなかったでしょう。

たしかアーヴィングが同時多発テロについて、「周縁の立場から書く」といった意味のことを書いていました。獅子文六もまた周縁の作家です。何しろ1954年の小説なので、言葉の上では偏見から完全に免れはしません。でもそこに囚われて目の前の人間を見ないのが凡人であるならば、彼は離れた場所からひとりひとりの人間性を、常識に囚われず冷静に見抜きます。だから時代の言葉による制約にもかかわらず、人間性を無視しないのだと思います。世間の偏見に抗うばかりでは受け入れられませんし、ときに権力によって何をされるかわからない。清濁併せ呑む、とでもいいましょうか、「わかりやすさ」を装いながら——というより真っ向からまさにそのものに取り組みながら、独自のまなざしをしたたかに潜ませるのが作家なのかもしれません。安全な「ニーズ」に乗っかって個を断罪するだけでは三流以下です。

現代の読者にとってもっとも困惑させられるのが書名の「怪談」ではないでしょうか。おそらくハロウィン向け喜劇映画『毒薬と老嬢』のような感じを意図したのだと思います。どちらも価値観の急激な変化を題材にしていて、雰囲気も似ています。戦争の傷や敗戦後の混乱によって価値観が転倒(当時の感覚で)したことを怪異、ホラーと見なしたように思えます。またストーカーの描写は、当時としてはギャグだったのでしょうが実際に経験すると笑えません。現代でさえ世間は被害者を責めますし、警察も助けにならないことが多いと聞きます。まして当時そのような暴力に晒されたら、と思うと背筋が冷えます。この物語でも登場人物は通報など考えもしません。誰もが誹謗中傷を信じ込んで主人公たちが孤立する、といった現実的な展開にならなかったのは幸いです。ネタバレになるから詳しく書けませんが、あの人物のあの攻撃は、その後の展開を考えると、慎一が潔癖症でよかったなと思いました。手に入りそうな獅子文六の小説は残すところ『大番』だけ。あとは図書館で読むしかありません。

できれば『セルフパブリッシング概論』よりこちらを読んでいただきたいです。小説が本領なので。


ヘリベマルヲ

略称、ヘリマル。出版レーベル「人格OverDrive」から代表作『悪魔とドライヴ』をはじめとする8冊の小説を刊行。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにてウェブディレクター・佐々木大輔氏から「注目の『セルフパブリッシング狂』10人」に選ばれた。